21世紀は別世界、現在の価値観では滅びる!

 

日本は1968年に誕生した明治政府の殖産興業政策よって農耕社会から産業社会へと移行
を始めた。そして丁度100年後の1968年に国民所得が世界第2位になった。その間に人口
は3300万人から10100万人と3倍以上に増加した。産業化は大成功と言えよう。

所がこの頃から出生率の低下が目立ち始め、1975年には人口維持に必要な合計特殊出生
率2.08を割り込むようになった。その後、1990年以降は1.2-1.5の間を上下する状態が続いている。拡大を続けた産業社会は一転して縮小を始めた。

拡大した原因は明瞭である。農耕以外に収入を得る方法が無かった農耕社会では、耕作
地を得られなかった子供達は家庭を持ち自分の子供を持つ事が出来なかった。故に人口
は増えなかった。人口は耕作地の広さに限定された。それが新たな産業が興り、そこで
収入を得る事が出来るようになったので人口が急増した。

経済は需要が供給を呼び、供給が需要を呼ぶ。人口が増えれば新たな需要が創出し、そ
れに伴い新たな供給が供される。産業社会はまだまだ拡大が可能な社会なのに縮小過程
に入ってしまった。人口減少の原因を取り除かない限り縮小過程は続き、最後は社会が
消滅する。時間が経過すれば何処かで減少がストップすると言うものではない。

 

 <社会縮小の原因>

農耕社会では食べ物さえ与えておけば良いので子育ての費用は少額で済む。又子供は親
にとって経済的に有用なものであった。故に子育ては親の責任で行ない、社会は関与し
ないと言う常識が出来上がった。現在に於いてもその常識は基本的は踏襲されており、
子供の養育に対する社会的援助は申し訳程度の微々たるものに過ぎない。

しかし産業社会では構成員に高度な教育を受ける事が要求されるので、子供の養育費は
桁違いに高額になった。もはや多くの若者には2人以上の子供に充分な教育を受けさせ
る事が困難になってしまっている。これは近年に始まった事ではない。高度成長期で専
業主婦が当たり前の子育てがし易い筈の1975年に於いて既に出生率が落ち込んでいる。
少子化は産業社会が完成した時に始まっているのである。

産業社会では「子供は親にとって有用なものであり、養育は親の責任」と考えていたの
では出生数の低下は止まらない。「子供は社会にとって有用なものであり、養育は社会
の責任」と考えて社会の制度を再構築する必要がある。

 

 <子供を持つ事は生物の基本的権利>

生物には子供を持つ権利がある。これは基本的人権と言うような下位の権利ではなく、
生物としての当然の権利であろう。この権利を実質的に認めるには、社会は子供を育て
られる環境を提供しなければならない。これを提供できない社会は消滅する。

また子供はその社会で自立出来るだけの教育を受ける権利がある。どの生物でも生まれ
た子供が自立出来る年齢になるまでは親及び社会で養育する。現在の日本では大学又は
専門学校が条件であろう。勿論権利であるから行使するか否かは個人の自由である。

現在の日本社会はこの生物としての最低限の権利を認めていない。若者や子供こそが最
も酷い社会的弱者と言える。彼らは人間らしい生活どころか、生物としての最低限度の
生活さえ出来ていない。生物は自分一人が生きられれば良いと言う訳ではない。自分が
生き抜き且つ次世代を育ててこそ一生であろう。

これは世代としての話で、個々人が子供を育てる責任があると言うのではない。社会が
環境を整えても子供を育てる人が少なければそれは仕方がない。その様な事態になるな
ら、それはその社会に生存能力が無くなったとして、諦めて滅び去る以外に無い。

 

 <教育の無料化>

出生率の低下は産業社会の高度化に伴う教育費の高騰に原因がある。親が単独で負担で
きない以上は社会が負担する以外に無い。また産業社会では男女共に働く事が必要であ
り、その為には0才から社会の援助が必要になる。0才から始まり大学や専門学校まで行
くなら2000万円程度の費用が掛かる。出生数が150万人なら年間30兆円になる。

子供に教育を付すことは社会にとっては投資である。未成熟な明治政府でもその時代に
必要な教育は全国民に無料で提供した。お蔭で日本は欧米に伍する事が出来た。明治政
府に出来て現在の政府にできない訳は無い。30兆円の投資は社会を維持発展させる最重
要事項と言って差し支えないであろう。

30兆円の予算を捻出するには現在の社会制度を大幅に変更しなければならない。その為
には現在の社会の価値観を変える必要がある。人間は若い時に思考の型が決定し、それ
を途中で変えるのは難しい。だが困難でもやらなければ社会の制度は変わらない。

 

 <その社会が扶養できる人数は一定である>

社会は自活が可能な現役世代と子供と自活能力を喪失した老人で構成されている。企業
は現役世代が運営しているので現役世代の一員となる。その社会が扶養できる限度は現
役世代が生み出した余剰の範囲で可能になる。老人が増えれば当然に子供は減る。

人口の多い団塊世代が減少を始める10-15年後からは老人の数が減り社会の負担は減少
を始めるが、それ以上の規模で現役世代が減る。現役世代が減れば社会が生み出す余剰
は減る。減るスピードの方が速い以上、今後も子供は減り続ける。

人口減少には移民の増加をと言う意見もあるが、日本の社会で生きる以上は移民も子供
を持つ事は難しい。そういう魅力のない社会に優秀な人材が集まるとは思えない。

 

 <健康保険の適正化>

現行の健康保険制度の実態は健康福祉制度と言えるものである。保険制度ならその料金
は病気の発生頻度と支払規模で決める必要がある。生命保険でも若者の保険料は安い。
所が何故か健康保険料は年齢ではなく所得で決定される。若者や高額所得の人にとって
は実質的には税金であり、老人や低額所得者にとっては福祉に他ならない。

医学の進歩と共にその保険料は高額になり、今や第2の所得税と言って良い規模にまで
膨らんでしまった。医学は今後も進歩するので、健康保険の規模は更に大きくなるであ
ろう。健康保険制度から福祉思想を排除し、本来の保険制度に改める必要がある。

本来の保険制度のシステムから考えれば当然に高齢者の保険料は高額になり、大多数の
人は加入できないと思う。高齢者に健康保険制度はそぐわない。現行の健康保険制度は
せいぜい60才程度までで、それ以上の人は別途考えるべきである。

 

 <老化は社会全体で支える必要はあるのか>

老化は全員に訪れるものである。老化してくれば身体のあちこちにトラブルが生じて来
るのは必然である。トラブルは死に至るまで次々と生じ、医学の進歩と共にその件数は
増え続ける。医療費は増々膨大になるであろう。これに社会全体が立ち向かえば社会の
方が押し潰される。どう考えても社会には勝ち目のない戦である。

全員に生じる老化現象には個々人で対応して貰う以外に方法は無い。少しでも長く生き
る事より、無駄な抵抗はやめて如何に若い時に生を楽しむかの方に重点を置いた方がよ
り生産的であろう。別に現在の老人に遠慮する必要は無い。若者も何れは老人になる。
どの世代が得をし、どの世代が損をすると言う事はない。どの世代も平等である。

原理主義の人達には受け入れ難いかも知れないが、勝算もなく事に立ち向かえば戦前
の軍隊と大して変わらない結果になる。感情論や精神論では何も解決しない。出来ない
事は出来ないと見切り、次善の策を講じる方が理に適っている。

個々人で対応するとなると所得に依る生存年齢に格差は出るが、所得差は政策の問題に
なる。個人の能力差がある以上ある程度の所得差はやむを得ないが、現在の様に極端な
所得差は是正する必要が有ろう。資本主義の欠陥の是正は大きな政治テーマになる。

 

 <自分か子や孫か>

老人に対する扶助は当の老人や老人予備軍の50歳以上の人だけでなく、親孝行な若者世
代にも心地の良い制度である。しかも子供が減る痛みは判り難い。毎年労働市場に入っ
て来る人数が1-2万人づつ減るだけである。6800万人の労働人口から見れば微々たる数
に過ぎない。日々の生活からは子供の減少の痛みが実感出来ないのは仕方がない。

まさしく茹でガエル状態である。現行の制度を続ければ子供は減少し続け、日本は消滅
する。福利厚生は現在生きている人には幸福な制度ではあろうが、後から生を受ける人
には不幸な制度である。衰退して行く社会では後の世代ほど不幸の度合いが深まる。

生物界では他人に依存して生きる権利を持つのは子供だけである。成人した後は自分の
力で生き抜くのが当然である。高齢になったからと言って他人の扶助を要求する正当な
権利はない。扶助をするか否かはその社会が決める事であろう。現在の老人にも、未来
の老人にも苦しい事ではあるが、社会を滅ぼしてまで生を貪るのは非道である。日本人
が自慢する「民度」なるものが如何ほどのものかが問われる事態である。

 

 <親孝行と産業社会>

農耕社会では耕作地を得られなかった子供は親から遺棄され、奉公人や下人として社会
底辺で生きた。親も子も割り切らざるを得なかったであろう。これは冷たい様だがその社会の構造上の宿命であり、個々人の力では如何ともし難い事であった。

産業社会では子供は親と社会に育てられ、子供が成人すれば親子は別々に暮らす。場合
によっては子供は外国で暮らすかも知れない。親子の愛情は変わらないだろうが、現在
の様に深く関わる事は少なくなるであろう。人が責任を持つのは成人するまでの自分の
子供であり、親ではない。成人すれば自分で生きる。社会の構造が変化した以上、好む
と好まざるに関わらず、その時代を生き抜く倫理観を持つ以外に方法は無い。

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