絶滅危惧種「日本人」      (blog-1)

ネットで「絶滅危惧種、日本」と検索するとコウノトリシマフクロウイヌワシ・ジ
ュゴン・タガメ・アオウミガメ等多くの動物が掲載されており、その保護が呼びかけら
れている。だが何故か、その中に「日本人」という名前が見当たらない。

総務省の資料「我が国における総人口の長期的推移 - 総務省」によると、日本の人口は
今後毎年100万人程のペースで減り続けるらしい。低位推計の場合は130年後の2150年
頃には人口はほぼゼロになる。当然それまでに国家は崩壊するだろう。
出生数が減り続ける原因を取り除かなければ、減少幅が増加する事は有ってもストップ
することは無い。総務省が統計で「このまま行けば日本人は絶滅する」と言っている。
自分達の事はどうでも良いのであろうか・・・・・不可思議である?

別に絶滅する事が悪いと言う訳ではない。皆が楽しい生活を続け、その中で消滅してい
くならそれもまた良しである。だが残念ながら楽しく消滅していく事は出来ない。
今後の「少数の若者と多数の老人」と言う社会では、その社会の全員が貧困に陥る。

少数の若者から限界まで搾り取っても、それを多数の老人で分けてしまえば、1人当た
りの分け前は僅かになる。この様な社会では若者も貧乏、老人も貧乏になる。
石川啄木ではないが、若者達は「働けど働けど猶わが生活楽にならざり・・・」状態に
なってしまう。更に困った事に、時代が下るほどその悲惨さは増してくる。

その様な夢の無い社会なら、能力のある若者は国外に活路を見い出し日本から逃げ出す
可能性が高い。有能な若者ならどの社会でもウエルカムである。
日本より経済的に困難な国は有るので、日本の人口が減れば移民は来るであろうが、当
然その中には有能な若者はいない。日本は老人と凡庸な若者&移民だけの国になる。

このまま何もしなければ50年を待たずして日本の社会が崩壊する可能性がある。
出生率を回復させる以外に日本人が幸せな人生を送る方法は無い。
それでは先ずは出生率が低下する構造的な原因を考えてみよう。
老人達も自分達には関係ないと考えずに、子や孫の為に真剣に考えて貰いたい。


 <危険信号は1960年頃から発せられていた>

日本の人口は1925年(昭和元年)から1985年(昭和60年)迄、戦時を除き毎年100万人
増えている。だが「合計特殊出生率」という親世代が何人の子供を産んだかと言う指標
では、戦前には「3.5-4.5」あったものが、1960年には早くも人口維持に必要な「2.1」
にまで低下し、その後しばらく「2.1」前後で推移している。
1975年に「2」を、1995年に「1.5」を割り、その後は「1.3-1.5」の間で推移している。

問題は1960年頃には既に人口維持に必要なギリギリの水準まで低下していた事である。
その後の人口増加は単に平均寿命が延びたことに依るもので、一時的な現象と言える。
人口減少による社会崩壊の原因は既に1960年頃に芽生えていたのである。
1960年は新安保条約が成立し、池田内閣が誕生して「所得倍増計画」を発表した年だ。
その計画は順調に進み、多少の波は有れ、1990年まで高度成長が続いた。

「豊かで、女性が専業主婦」という子供を育てやすい時代に出生率が減ったのである。
現在の60・70才代の人達は、この様な恵まれた時代でも十分に子供を産まなかった。
否、恵まれていた彼等ですら産むことが出来なかったと言う方が公平であろう。

若者が子供を産まなくなった根本原因は、所得の低下でも労働環境の問題でもないので
ある。だから、子供手当保育所働き方改革をしたからと言って問題は解決しない。
(勿論、それは必要な事ではあるが、必要かつ十分な条件ではない)
それでは1960年頃に顕在化して、その後拡大化した社会の要因を何であろうか?


 <農耕社会から産業社会への移行が顕在化>

日本では農耕主体の社会が紀元前1000年頃から19世紀中葉までの3000年ほど続いた。
そして19世紀中葉に明治政府が出現し、中央集権の下で殖産興業の政策が推進された。
各種の産業が勃興し、徐々に産業部門が拡大して日本は産業社会への歩みを始めた。

産業の発展は新しい働き口を創出したので、農耕社会では子供を持てなかった人達が職
を得て家庭を持ち、子供を育てる事が出来るようになった。その結果人口が急増した。
(1870年:3300万人、1970年:10300万人、1世代25年毎に33%の人口増加)

1950年頃に中東で大量の油田の発見され、その結果世界的好況になり日本も復興した。
産業部門は大発展し、農業部門も機械化・化学肥料の使用等で兼業農家が激増した。
結果、大多数の人は産業部門に従事し、農業部門の従事者は少数になってしまった。

明治以来100年の移行期間を経て、日本は農耕社会から産業社会に変貌した。
農耕社会と産業社会は全く異なる経済システムの社会である。当然に社会規範も変わら
なければならない。しかし我々は未だにそれを変える事が出来ないでいる。
人の思考の型は若い時に出来上がり、その後に変化させるのは極めて難しい。
人間の寿命から考えると、100年と言う移行期間は社会規範を変えるには短か過ぎた。

人は一定の環境の下、其処で生きて行くのに都合の良い社会規範を作って生活する。
だからどの社会にも適応する社会規範というものは無く、社会の構造が変化すればその
中の社会規範も変化する。「現代の常識・美徳は未来の非常識・悪徳」かも知れない。
我々は産業社会に見合った新しい社会規範を構築しないと生きて行けなくなる。

それでは農耕社会と産業社会の大きな違いは何であろうか?


 <農耕社会と産業社会の違い>

1. 農耕社会では子供は必需品。

機械や化学肥料の無い時代の農業は厳しい労働が必要である。40才代にもなれば体力が
落ちてきて徐々に助けが必要になる。その頃には子供が手伝える年齢になる。
年と共に労働の主体は子供に移行していき、子供が結婚する頃には子供の時代に移る。
孫が何人か出来た頃には親は寿命が尽きる。このサイクルが延々と続くのである。

もし子供が居なければ養子を貰う事になるが、それは当然子供が小さな内に行われる。
他人が産んだ子であろうと、自分の子であろうと、養育し仕事を教えていく過程は同じ
である。親が子供を育て、やがては子供が親を助けるという構図は変わらない。
また自給自足の生活は雑用が多いが、子が10才にもなれば充分に手伝いが出来る。
子供を育てる事は親にとって実利がある。農耕社会では子供は必要なものである。

2. 産業社会では子供は不要である

産業社会では親と子は別々の職業に就き、別々の人生を歩むのが普通である。
農耕社会の様に、親と子が協力をして一つの仕事をしていくと言う構図は存在しない。
親が子供を育てるという事に対する利益は殆ど無く、親が一方的に労力を提供する。
この社会では人が生きていく上で子供は必要としない。

3. 農耕社会では子供の養育費用は安価である。

農耕社会で生活するのに特段の教育は必要ない。仕事は親が教えれば充分である。
食糧や衣料もかなりの部分は自給自足が可能である。米は商品ではあるが、自作なの
で原価で手に入る。野菜も自宅の庭に植えておけば自家消費分ぐらいは賄える。
農耕社会で生活していく上では、子供を養育する費用は極めて安価である。

4. 産業社会では子供の養育費は高価である。

産業社会はどんどん高度化し、時代が進むほどそのスピードは増してくる。1960年頃ま
では中卒でも結構就職先はあり、能力のある人は職人・商人として事業主になる事も珍
しくなかった。彼等の収入は大卒のサラリーマンと同等、またはそれ以上の人もいた。

ところが産業が高度化するに連れ、要求される教育も高度化していった。
調理師・理美容師の養成施設も入学の資格は原則高卒で、その教育年数は2年である。
つまり大半の資格は最低6・3・3・2の14年の教育を受けてこないと習得できない。

また一般企業でも現場職以外は大卒が必要条件で、現場職からの成功談は稀である。
大学生でも別途英会話を習ったり、理工系などは大学院まで進むことも珍しくない。
産業社会に於ける子供の養育費は極めて高価なものと言える。

産業社会の進化はスピードアップし、それに応じて子供の養育費用は増々高騰化する。
因みに、大卒までにかかる教育費用は最低1000万円、下手をすると2000万円を超える。
これに食費・衣料費・遊具費など諸々の費用を加えれば気が遠くなりそうである。


 <個人の利益と社会の利益>

以上から、子供は農耕社会では育て易く必要であり、産業社会では育て難く必要は無い
と考えられる。だが個人個人にとっては必要でなくても、社会全体としては、その維持
のために子供は絶対に必要なものである。また数だけではなく、その質も重要になる。
社会の成員が充分な教育を受けていないと、他の社会との生存競争に負けてしまう。
教育を施された子供が沢山存在する事が、その社会全体の発展に必要不可欠である。

ここで子供を特に必要としない個人と、高い教育を受けた多くの子供を必要とする社会
全体との間に大きな利害の乖離が生じる事になった。

好況期で、子育てがし易かった時代でも子供を産まなかったのは教育費と住居費の問題
が最大の要因と言える。確かに通常の生活だけなら子供を3・4人育てる事は出来ても
高等教育や子供の生活環境の充実などを考えればエリートサラリーマンでも躊躇した。

子供を持ちたいと言う生物的本能を満足させるだけなら1人・2人の子供でも充分であ
る。むしろ少ない子供に充分な教育と生活環境を与えた方が理に適っている。
また子供が欲しくない人もいる、精神的・肉体的に子供を産む事の出来ない人もいる。
希望する人でも1人・2人では出生率が激減していくのは当たり前である。

これは日本だけの問題だけではない。「世界の合計特殊出生率 国別ランキング・推移」
に国別の合計特殊出生率が掲載されている。国によって諸事情があるであろうが、
「2.1」以上の国は概して産業化が未達成の国々である。産業化を完了した国は殆ど
「1.8」を切っている。
ヨーロッパ諸国は押し並べて「1.5-1.7」程度、日本・シンガポール・韓国・台湾などの
アジアの国は更に数値が低く「1.0-1.5」と危機的である。ヨーロッパよりアジアの方が
総じて数値が低いのは、農耕社会の色彩がより強いためであろうか。

産業社会に於いては、子育てを個々人に任せておけば出生数がどんどん減っていく。
教育を受けた子供を必要とするのが社会全体なら、その費用を負担をするのは社会全体
でないとおかしい。利益を受けるものがその費用を支払うのは当然である。
農耕社会の「子供は親が育てる」から、産業社会の「子供は社会全体で育てる」という
価値観の変化を受け入れないと日本は崩壊してしまう。


 <子供の学習の権利>

憲法26条では、日本人として生まれてきた子供は「必要な学習をする権利を有し、その
学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利」が
有ると記されている。教育のレベルは当然その社会で通用する物でなければならない。

一方、憲法27条には国民の三大義務の一つである「就労の義務」が記されている。
義務がある以上、子供にはその社会で生きて行く為の教育を受ける権利がある。
筆者は弱者が働かなくて良い権利より、子供の学習の権利の方が正統性があると思う。

必要な教育の水準はその社会によって異なる。前述のように農耕社会なら親から教われ
ば充分であるが、産業社会では学校で一定レベルの教育を受けないと追いつかない。

では日本政府の過去の行動はどうであったか? 皮肉な事に戦後の民主主義下の政府と
異なり、専制的な明治政府は優秀であった。産業の高度化に伴い、明治政府は1900年
(明治33年)に4年間、1907年(明治40年)に6年間の教育を無償にした。
戦後の政府は1947年に9年間に延長したが、何故かここで無償化延長はストップした。
産業の高度化は続いているのだから、無償の教育を延長するのが当然の流れである。

現在では6・3・3の12年間の教育でも不充分である。子供達が自活する為には14-16年間
の教育は必要条件である。当然、この教育は権利であるから無償でなければならない。
(義務教育の延長は必要としない。学校教育を必要としない人もいる)
投票権が無いと言うだけで、日本国民である子供達の権利を無視してはいけない。


 <教育費の規模は>

前述のように子供達に充分な教育を受けさせるには1000-2000万円必要である。平均し
て1500万円と考えよう。(前提として、当然に教育界には大きな改革が必要である)
各年齢の平均人数を150万人とすると(1500万円×150万人)で予算は年間22.5兆円にな
る。簡単に言えば現行の予算に20兆円ほどを積み増せば、日本国民は必要な教育を受け
る事が出来る。この社会を存続させる為の費用であれば決して過大なものではない。

但し、こんな提案をしたら財務省は発狂する。どう考えても20兆円の追加予算は不可能
だ。これ以上増税すれば、それでなくても息絶え絶えの現役世代は死に絶えてしまう。
だが教育の「完全無償化・子育て支援」を行わないと社会は崩壊する。
これぞ、行くも地獄、退くも地獄である。
ニッチモサッチモ行かなくなった時は原点に還る以外にない。
国民の権利・義務を検証して、国の行うべき仕事とその予算を再考する必要がある。

 

 <国民の権利と義務に対する一考>

憲法25条(生存権)は大いに主張されるが、それは本当に正当な権利なのであろうか?
少なくとも憲法26条(教育権)より正当な権利なのであろうか?

国連憲章には「生活水準並びに生活条件の不断の改善についてのすべての者の権利を認
める。締約国は、この権利の実現を確保するために適当な措置をとり・・・・・」と記
されている。ヨーロッパのリベラリストが主導する国連ですら努力目標である。
日本国憲法には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
と記されている。日本国憲法国連憲章より更に一歩踏み込んだ表現になっている。
この条文は(ネットの情報が正しければ)GHQの原案にも無かったらしい。

フランス・イタリアでは日本の条文に近く、イギリス・ドイツには特段の規定は無い。
アメリカはGHQの原文にも無いのだから、当然規定は無い。
この規定があるかないかで大きな違いがある。
勿論、規定が無いからと言って行っていない訳ではないが、国に支払い能力が無ければ
減額したり中止が出来る。だが規定があれば無理にでも行わなければならない。

日本は民主主義国家だから、国の義務は主権者である国民全員の義務に他ならない。
権利と義務は裏表の関係である。ある国民に「生活を営む権利がある」なら、当然に他の国民には「営ます義務」が課せられる事になる。

民法には親族に対する扶養の義務が書かれている。これは多くの人が納得する項目であ
ろう。(筆者はこれも大幅に縮小すべきと考えているが)
だが赤の他人にまで「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する義務があるのか。
この理屈ならば、日本国民は皆が家族同様の関係になる。まるで疑似共産主義である。
困っている人が居たら好意で助けてあげるのは素晴らしい行為であるが、義務で助けろ
と強要されるのでは納得できない。

法学者は生存権の存在を主張するかもしれないが、それは単に一つの学説に過ぎない。
自分が弱者であるからと言って、他人の懐に手を突っ込んで良い道理は無い筈だ。
このままでは日本中が1億総「貧・貧介護」状態になって、皆で抱き合い心中になる。
(資本主義の欠陥である貧富の拡大は、富裕層への増税の範囲内で行うべきである)

生存権を否定すれば福祉関連の予算および健康保険料などは大幅削減される。
弱者への援助は可能な人が善意で行うもので、国民全体が義務で行うものではない。

但し年金制度は存続する。年金制度は福祉政策ではなく、産業社会を維持するための必
要な制度だからである。農耕社会と異なり、産業社会では退職すれば生活する方法が無
くなる。普通に働いてきた人が退職から死ぬまでの期間の生活が保障されなければ、社
会が維持できない。その為に次代の人材は社会全体で育てている。


 <天使と天使がタッグを組んで悪魔に変身した>

それでは日本の社会を崩壊に導いている元凶は何か? それは「医学」である。

医学は大きな功績を残している。「医術は算術」と心得ている医師も居るであろうが、
人を救うと事に使命感を持った医師が大半であろう。医学のおかげで救われた人は無数
にいると考えられる。まことに「白衣の天使」の名称は伊達ではない。

またヨーロッパで提唱された「福祉国家」も、その提唱された過程に政治的な匂いはす
るが、基本は心優しき思想であろう。実行が可能であれば素晴らしい主張である。

ところが医学と福祉国家がタッグを組んだ結果、社会は一転滅亡に歩み出した。

人間は60才も過ぎれば全体が劣化していき、身体に色々とトラブルが生じてくる。
脳を含め身体全体の劣化が進むと、自活するに足りる仕事は段々出来なくなる。
この世は上手くしたもので、その頃になれば身体の何処かに大きな故障が生じて死ぬ。
「自活出来なくなったら程なく死ぬ」と言う事なら左程他人の世話にならなくて済む。
つい最近まで、人間はこの様なサイクルで生きてきた。それを医学が破壊した。

医学がコレラ・ペスト・結核などのの細菌を殺す段階でストップしておけば問題はなか
ったが、彼等は老化した身体の部品の修理にまで手を出し始めた。

医学は部品の修理は行うが、全体の劣化を改善して若い身体にする事は出来ない。
その結果「自活は出来ないが生きている」という人間を大量に創り出してしまった。
「自活が出来なくなったら程なく死ぬ」という自然のサイクルを破壊したのである。
医学は善であるが、少し思慮の足りない善であった。

これが医学だけならそれ程の大事にはならなかった。医療費は高額であり、誰でも利用
できるものではないので、その影響は限定的なものになった筈である。
だが、ここに国民全員に健康保険をと言うトンデモナイ政策が絡んでしまった。

「医学」と「福祉国家」がタッグを組んだ結果、医学の進歩と共に医療費は際限がなく
なった。同時に自活できない人を大量に生み出し、その生存権に基ずく生活費の支給は
膨大になった。遂には現役世代は重税で瓦解し、国家財政は破綻の危機に面した。
命は何よりも大切だという「命原理主義」を唱えれば、その結果全員が死滅する。

知的で心優しい福祉思想と、献身的な医学と言う2つの善が日本の危機を招いている。
(善X善=大善)になるとは限らない。とかくこの世は難しい・・・・。


 <医学は史上最も強力なアヘン>

生物は少しでも生きていたいという本能を持っている。貧困でも、身体が不自由になっ
ても、認知症の恐怖を感じても、人は生に執着する。医学はこの生物としての一番強い
欲望に作用する。だから人間は自分の力で医学の誘惑を断ち切る事は困難である。
麻薬は取り付かれる人は少数なので個人が破滅するだけだが、医学は全員が取り付かれ
るので社会全体を破滅させる。その悪魔性はヘロインなど足元にも及ばない。

医学が無くても人類は破滅しない。3000年程前の日本の人口は10万人に満たなかったら
しい。それが300年ほど前には3000万人強にまで増加した。医学の無い時代でも日本人
は人口を増やしてきた。しかし、医学が全員に行き渡った時代に人口が急減し始めた。
悪魔面をした悪魔なら此方も用心するが、天使の仮面を被った悪魔には騙される。


 <60才を過ぎた人に健康保険制度は馴染まない>

保険制度という物は一部の人に生じる事柄に対してのみ有効である。だから保険料率は
それが生じる頻度によって異なる。生命保険も加入の年齢が低いほど保険料は低額であ
るが、加入の年齢が高くなるに連れて高額になっていく。そして一定年齢で加入の資格
が無くなる。その時期になれば大半の人が死ぬからである。

身体の深刻なトラブルは若い時にはそれ程起こる事ではない。だから彼らに対する現行
の健康保険制度は、その賛否は兎も角、少なくとも理には適っている。
一方、老化は全員に生じるものであり、高齢者の身体にトラブルが起こるのは必然であ
る。全員に生じる事項は保険制度は馴染まない。だから高齢者には現行の健康保険制度
に加入する資格は無い。資格を持たない人間がその制度に不正に加入して利益を貪るの
は、正当な加入者からの収奪行為に他ならない。

通常60才も過ぎれば多くの人にトラブルが生じるので、その当りの年齢で現行の保険制
度から脱退する必要がある。全員に生じる老化は個々人で対応して貰う以外にない。
彼らを援助したい人は、他人を引き込まないで、自分だけ寄付でもすればよい。

制度というものは理に適ったものでないと、必ず何処かで破綻する。一部の人達の無法
な行為で制度そのものが破綻すれば、加入者全員が被害を受ける。


 <子や孫の生き血を啜る高齢者>

刺激的な言葉で恐縮だが、現行の制度では高齢者が子供世代から理不尽な略奪を行う事
になる。もちろん当人達にはその様な意識は無いであろうが、結果としてそうなってし
まう。無知であるからと言って、その結果責任からは逃れられない。

現在65才以上の人口は4000万人弱である。彼らの年間医療費は平均75万円だから保険の
負担は(75万円×80%)60万円になる。総額は(60万円×4000万人)で24兆円である。
高齢者が支払っている年間の保険料はせいぜい数兆円であるから、医療費だけで20兆円
からの金が現役世代から奪われていると言える。

医療費が自己負担になれば現行のような手厚い医療は受けられなくなるので、当然平均
寿命は下がる。6・7才短くなれば人口は約1000万人程減る。年金や生活保護費を年間
100万円とすれば(100万円×1000万人)で負担額は10兆円程少なくなる。
合計すれば30兆円以上現役世代の負担は減る。上手くいけば教育費だけでなく消費税も
ゼロになる。

それではこの様な高齢者による略奪行為を若者たちが怒っているかと言えばそうでもな
さそうである。むしろ賛成している人が多いようにも見受けられる。何のことは無い、
彼らも自分達の子や孫から略奪する気が満々だから現行制度に反対しない。
誠に見下げ果てた社会である。「親が子や孫の生き血を啜る」という醜悪な社会が滅び
去るのは仕方のない事かも知れない。

60才も過ぎれば医学はアヘンと見做して、遠ざける以外に方法は無い。尤も自分の金で
アヘンを吸飲するのは自由である。吸飲したい人は確り金を貯めればよい。

生きると言う事は厳しいものである。通常自分が生き、子供を育てるだけで精一杯だ。
全ての生物はその様に生きている。助け合いなどは一寸した社会の潤滑油に過ぎない。
20世紀後半の潤沢な資金は、次への投資として子供達の育成に使うべき金であった。
我々はそれを間違え、次への投資を怠った。だから今、未曽有の困難に直面している。

産業社会は個々人が自立しないと成立しない社会である。厳しいと言えば厳しいが農耕
社会と比べたら極めて生産性の高い社会であり、そのお蔭で3000万人程しか生存できな
かった日本で1億人が生存できるようになった。更なる人口増加も可能である。
我々はこの社会に感謝する事はあっても恨むことは無い。

困難でも現行の社会規範を改めて産業社会で生き続けるか、このまま新しい社会に適応
できなくて滅び去るかはその社会の勝手である。


 <親と子の情愛について一考>

社会制度としては親世代と子の世代の切り離しは可能だが、個々の親子関係は切り離し
は困難であろう。いくら金銭的には負担が少なくなると言っても、子育ての大変さは変
わらない。まして20年前後も同居すれば増々親子の関係は濃密になる。

確かに、親が倒れれば子は何とかしてやりたいと思うのが普通の感覚であると思う。
しかし医療費は高額であるから、何とかしようとすれば子の生活は破綻する。
それを承知で子の援助を受けるなら、その人間に親の資格は無い。
親は親、子は子のそれぞれの人生を自己完結させることが産業社会で生きる術である。

この関係は代々受け継がれるので、ある世代が得をして、ある世代が損をするというも
のではない。どの世代にも公平な生き方であろう。
何事も腹八分目という言葉もある。人生も筒一杯まで考えず、八分目あたりで完了する
のが良い加減かと思う。
別に自殺をするわけではない。自然の摂理に従えば静かに人生を終える事が出来る。

いくら情愛が有っても出来ない事は出来ない。此の割り切りが出来ない社会は滅びる。
割り切りが出来なくて自滅する人も多いかと思うが、それは仕方がない。
冷たいかも知れないが、環境に順応できない種や個体は滅び去る運命にある。
現代人のDNAには縄文人のものは10%程度しか含まれていないと聞く。ならば縄文人
農耕社会に適応した社会規範に馴染めず、その大半が自滅したのであろう。

他の生物は環境に合わせて自分の身体を作り変えて適応していく。身体を作り変えるの
で適応には長い時間がかかる。しかし人間は脳を使って新しい環境に適応する。身体を
変化させないので短時間で新しい環境に適応できる。適応力こそ人類の最大の能力であ
る。出来ればこの特技を生かして、新しい産業社会に順応して貰いたいと願う。

 

2020年9月 喫煙屋才六