21世紀は別世界、現在の価値観では滅びる!

 

日本は1968年に誕生した明治政府の殖産興業政策よって農耕社会から産業社会へと移行
を始めた。そして丁度100年後の1968年に国民所得が世界第2位になった。その間に人口
は3300万人から10100万人と3倍以上に増加した。産業化は大成功と言えよう。

所がこの頃から出生率の低下が目立ち始め、1975年には人口維持に必要な合計特殊出生
率2.08を割り込むようになった。その後、1990年以降は1.2-1.5の間を上下する状態が続いている。拡大を続けた産業社会は一転して縮小を始めた。

拡大した原因は明瞭である。農耕以外に収入を得る方法が無かった農耕社会では、耕作
地を得られなかった子供達は家庭を持ち自分の子供を持つ事が出来なかった。故に人口
は増えなかった。人口は耕作地の広さに限定された。それが新たな産業が興り、そこで
収入を得る事が出来るようになったので人口が急増した。

経済は需要が供給を呼び、供給が需要を呼ぶ。人口が増えれば新たな需要が創出し、そ
れに伴い新たな供給が供される。産業社会はまだまだ拡大が可能な社会なのに縮小過程
に入ってしまった。人口減少の原因を取り除かない限り縮小過程は続き、最後は社会が
消滅する。時間が経過すれば何処かで減少がストップすると言うものではない。

 

 <社会縮小の原因>

農耕社会では食べ物さえ与えておけば良いので子育ての費用は少額で済む。又子供は親
にとって経済的に有用なものであった。故に子育ては親の責任で行ない、社会は関与し
ないと言う常識が出来上がった。現在に於いてもその常識は基本的は踏襲されており、
子供の養育に対する社会的援助は申し訳程度の微々たるものに過ぎない。

しかし産業社会では構成員に高度な教育を受ける事が要求されるので、子供の養育費は
桁違いに高額になった。もはや多くの若者には2人以上の子供に充分な教育を受けさせ
る事が困難になってしまっている。これは近年に始まった事ではない。高度成長期で専
業主婦が当たり前の子育てがし易い筈の1975年に於いて既に出生率が落ち込んでいる。
少子化は産業社会が完成した時に始まっているのである。

産業社会では「子供は親にとって有用なものであり、養育は親の責任」と考えていたの
では出生数の低下は止まらない。「子供は社会にとって有用なものであり、養育は社会
の責任」と考えて社会の制度を再構築する必要がある。

 

 <子供を持つ事は生物の基本的権利>

生物には子供を持つ権利がある。これは基本的人権と言うような下位の権利ではなく、
生物としての当然の権利であろう。この権利を実質的に認めるには、社会は子供を育て
られる環境を提供しなければならない。これを提供できない社会は消滅する。

また子供はその社会で自立出来るだけの教育を受ける権利がある。どの生物でも生まれ
た子供が自立出来る年齢になるまでは親及び社会で養育する。現在の日本では大学又は
専門学校が条件であろう。勿論権利であるから行使するか否かは個人の自由である。

現在の日本社会はこの生物としての最低限の権利を認めていない。若者や子供こそが最
も酷い社会的弱者と言える。彼らは人間らしい生活どころか、生物としての最低限度の
生活さえ出来ていない。生物は自分一人が生きられれば良いと言う訳ではない。自分が
生き抜き且つ次世代を育ててこそ一生であろう。

これは世代としての話で、個々人が子供を育てる責任があると言うのではない。社会が
環境を整えても子供を育てる人が少なければそれは仕方がない。その様な事態になるな
ら、それはその社会に生存能力が無くなったとして、諦めて滅び去る以外に無い。

 

 <教育の無料化>

出生率の低下は産業社会の高度化に伴う教育費の高騰に原因がある。親が単独で負担で
きない以上は社会が負担する以外に無い。また産業社会では男女共に働く事が必要であ
り、その為には0才から社会の援助が必要になる。0才から始まり大学や専門学校まで行
くなら2000万円程度の費用が掛かる。出生数が150万人なら年間30兆円になる。

子供に教育を付すことは社会にとっては投資である。未成熟な明治政府でもその時代に
必要な教育は全国民に無料で提供した。お蔭で日本は欧米に伍する事が出来た。明治政
府に出来て現在の政府にできない訳は無い。30兆円の投資は社会を維持発展させる最重
要事項と言って差し支えないであろう。

30兆円の予算を捻出するには現在の社会制度を大幅に変更しなければならない。その為
には現在の社会の価値観を変える必要がある。人間は若い時に思考の型が決定し、それ
を途中で変えるのは難しい。だが困難でもやらなければ社会の制度は変わらない。

 

 <その社会が扶養できる人数は一定である>

社会は自活が可能な現役世代と子供と自活能力を喪失した老人で構成されている。企業
は現役世代が運営しているので現役世代の一員となる。その社会が扶養できる限度は現
役世代が生み出した余剰の範囲で可能になる。老人が増えれば当然に子供は減る。

人口の多い団塊世代が減少を始める10-15年後からは老人の数が減り社会の負担は減少
を始めるが、それ以上の規模で現役世代が減る。現役世代が減れば社会が生み出す余剰
は減る。減るスピードの方が速い以上、今後も子供は減り続ける。

人口減少には移民の増加をと言う意見もあるが、日本の社会で生きる以上は移民も子供
を持つ事は難しい。そういう魅力のない社会に優秀な人材が集まるとは思えない。

 

 <健康保険の適正化>

現行の健康保険制度の実態は健康福祉制度と言えるものである。保険制度ならその料金
は病気の発生頻度と支払規模で決める必要がある。生命保険でも若者の保険料は安い。
所が何故か健康保険料は年齢ではなく所得で決定される。若者や高額所得の人にとって
は実質的には税金であり、老人や低額所得者にとっては福祉に他ならない。

医学の進歩と共にその保険料は高額になり、今や第2の所得税と言って良い規模にまで
膨らんでしまった。医学は今後も進歩するので、健康保険の規模は更に大きくなるであ
ろう。健康保険制度から福祉思想を排除し、本来の保険制度に改める必要がある。

本来の保険制度のシステムから考えれば当然に高齢者の保険料は高額になり、大多数の
人は加入できないと思う。高齢者に健康保険制度はそぐわない。現行の健康保険制度は
せいぜい60才程度までで、それ以上の人は別途考えるべきである。

 

 <老化は社会全体で支える必要はあるのか>

老化は全員に訪れるものである。老化してくれば身体のあちこちにトラブルが生じて来
るのは必然である。トラブルは死に至るまで次々と生じ、医学の進歩と共にその件数は
増え続ける。医療費は増々膨大になるであろう。これに社会全体が立ち向かえば社会の
方が押し潰される。どう考えても社会には勝ち目のない戦である。

全員に生じる老化現象には個々人で対応して貰う以外に方法は無い。少しでも長く生き
る事より、無駄な抵抗はやめて如何に若い時に生を楽しむかの方に重点を置いた方がよ
り生産的であろう。別に現在の老人に遠慮する必要は無い。若者も何れは老人になる。
どの世代が得をし、どの世代が損をすると言う事はない。どの世代も平等である。

原理主義の人達には受け入れ難いかも知れないが、勝算もなく事に立ち向かえば戦前
の軍隊と大して変わらない結果になる。感情論や精神論では何も解決しない。出来ない
事は出来ないと見切り、次善の策を講じる方が理に適っている。

個々人で対応するとなると所得に依る生存年齢に格差は出るが、所得差は政策の問題に
なる。個人の能力差がある以上ある程度の所得差はやむを得ないが、現在の様に極端な
所得差は是正する必要が有ろう。資本主義の欠陥の是正は大きな政治テーマになる。

 

 <自分か子や孫か>

老人に対する扶助は当の老人や老人予備軍の50歳以上の人だけでなく、親孝行な若者世
代にも心地の良い制度である。しかも子供が減る痛みは判り難い。毎年労働市場に入っ
て来る人数が1-2万人づつ減るだけである。6800万人の労働人口から見れば微々たる数
に過ぎない。日々の生活からは子供の減少の痛みが実感出来ないのは仕方がない。

まさしく茹でガエル状態である。現行の制度を続ければ子供は減少し続け、日本は消滅
する。福利厚生は現在生きている人には幸福な制度ではあろうが、後から生を受ける人
には不幸な制度である。衰退して行く社会では後の世代ほど不幸の度合いが深まる。

生物界では他人に依存して生きる権利を持つのは子供だけである。成人した後は自分の
力で生き抜くのが当然である。高齢になったからと言って他人の扶助を要求する正当な
権利はない。扶助をするか否かはその社会が決める事であろう。現在の老人にも、未来
の老人にも苦しい事ではあるが、社会を滅ぼしてまで生を貪るのは非道である。日本人
が自慢する「民度」なるものが如何ほどのものかが問われる事態である。

 

 <親孝行と産業社会>

農耕社会では耕作地を得られなかった子供は親から遺棄され、奉公人や下人として社会
底辺で生きた。親も子も割り切らざるを得なかったであろう。これは冷たい様だがその社会の構造上の宿命であり、個々人の力では如何ともし難い事であった。

産業社会では子供は親と社会に育てられ、子供が成人すれば親子は別々に暮らす。場合
によっては子供は外国で暮らすかも知れない。親子の愛情は変わらないだろうが、現在
の様に深く関わる事は少なくなるであろう。人が責任を持つのは成人するまでの自分の
子供であり、親ではない。成人すれば自分で生きる。社会の構造が変化した以上、好む
と好まざるに関わらず、その時代を生き抜く倫理観を持つ以外に方法は無い。

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   年金受給者に選挙権は存在するのか?

社会というものはルールが無いと成立しない。ルールはその社会が存続するのに都合の
良い様に決められる。社会の構造が変化すると当然ながらルールも変更されていく。
ルールが先にあり、それに合わせて社会の構造を作るのではない。社会の構造が先にあ
り、その社会が存続できるように適正なルールを作るのである。

現行憲法では15条で全ての成人に選挙権があるとされている。現在は18才以上である。
この法思想が確立された時点では大半の成人は何某かの税金を支払っていた。少なくと
も他人の扶助で生活していた人は殆どいなかった。農業や初期段階の工業・商業が中心
の社会では高齢者と言えども、その多くは死の直前まで何がしかの生産業務に携わって
いた。専業主婦も勤労者の生活を支えているのだから、社会の生産に参加している事に
は変わりが無い。彼等も戸主の納税に参加していたのである。この様な社会構造である
なら、全成人が選挙権を持つ事に特段の祖語は生じない。

国は国民から徴収した税金で運営されている。金が無ければ何一つ仕事は出来ない。
政治とは詰まる所、国民から集めた税金をどの様に使うかと言う選択の問題である。
だから憲法納税の義務を定めている。納税は社会の成員と認める必要条件であろう。
本来なら、国民は平等の権利と義務を有している以上は税負担も平等であるべきだが、
高額所得者は社会のインフラの恩恵をより多く受けているので税の負担も大きくなる。
税の負担額の大小で投票権に大小が生じなくても問題は無い。

だが現在では税負担をしないどころか、逆に「社会から扶助を受ける成人」と言う現行
法が想定していなかった人々が大量に発生してしまった。税金を支払っていないのに、
その使い方の議論に参加する権利はあるのであろうか? 極めて問題である。
現行の法思想では有りとしているのであろうが、それは一学説に過ぎない。ある法思想
ではその社会システムに齟齬が生じるなら、それは再考しなければいけない。
(但し、税金を支払う事は参政権の必要条件だが、それは決して十分条件では無い)

現行の年金は支払った分以上に、税金で補填されて支払われている。国民年金に於いて
は、70才の人では40年間の支払総額は200万円程度であり、物価及び金利を考慮しても
400万円程度である。然るに受け取る金額は年間67万円である。僅か6年で元が取れる。
それ以降は現役世代からの扶助になる。彼らは社会の扶助で生きているのである。

近年は18才以上を成人としているが、彼等の選挙権も疑わしい。社会は税金を支払う自
立した人達で運営されており、未就労者である学生の選挙権も再考する必要があろう。
税金の使い方を決める場に、それを支払っていない人が参加するのは道理に合わない。
国民の権利と義務を明確にして、現行法の選挙権の範囲を再考する必要があろう。
その場合には勿論、被扶助者からも徴収する消費税などは廃止しなければならない。

受け取った年金以上に税金を支払っている人はこの限りではない。受取額より支払額の
方が多ければそれが納税額になる。当然選挙権があるものとされる。
また被選挙権はこの論と関係ない。選挙で選ばれる事には特段の疑念は浮かばない。

子供を除いた全国民が選挙権を持つことが民主主義だと教え込まれた人達には抵抗感が
あると思うが、権利と義務は不可分のものである。義務を果たさない者に権利は無い。
この事は現行の民主主義の概念に特段の変更を要するもので無いと考える。

blog5

       福祉社会は夢物語の社会!

大半の人は自分の生活に対して大なり小なり不安を抱えている。誰しもいつ病気になっ
たり怪我をするかは判らない。また自分の持つ技能が機械に取って代わられたり、産業
構造の変化などで職種そのものが無くなるかも知れない。そうなれば忽ち生活に行き詰
まってしまう。我々は一寸先は闇と言う中で生きている。(他の生物も同じだが)

ならば誰もが安心して暮らせる社会、弱者に優しい社会と言うのは誰しも憧れる社会で
あろう。現在は普通に生活していても何時弱者になってしまうか判らない以上、生きて
行く為のセーフティ・ネットがある社会は極めて魅力的である。福祉社会万歳である。

福祉社会は第二次世界大戦後にイギリス労働党が選挙で「揺り籠から墓場まで」と言う
スローガンで選挙に勝利した事で実行に移された。この巨額の財政支出を必要とする政
策はその永続性に関して精査されたもので無く、本来は短期間で破綻する筈であった。

だが幸か不幸か、この時産業の基幹原料である石油が中東で大量に採掘する事が出来る
様になった。お蔭で電化製品・車・化学繊維など多様な商品が生産されるようになり、
技術先進国である欧米諸国・日本などは大いに潤い、この金食い虫の政策は継続する事
が可能になった。長期間に渡る施行の結果、人々はこの政策が永遠に実行可能なものと
考えるようになり、遂には社会のスタンダードになった。

「助け合い」という言葉が大好きな日本人にも大いに受けて、福祉政策は日本でも定着
した。だが技術後進国の追い上げでこの長期に渡る好景気もやがて終焉してしまった。
世界の富の独占が出来なくなり、国の収入は激減したが、この国民にとって居心地の良
い福祉政策はストップ出来なかった。民主主義下の政府では不人気の政策は採れない。
日本は収入が減少しても生活水準を変えられずに破産するセレブの様なものであろう。

そこへ医学が追い打ちを掛けてきた。医学の進歩で老人が増え、福祉の対象は拡大する
一方となり、財政の不足は顕著になった。財政の不足は増税で対応する以外に無い。
増税は特に中間層を直撃し、彼らを対象とした高付加価値の商品は市場から排斥されて
しまった。低価格品は低い技術で作られ、かつ販売技術も不要になるので、高収入の仕
事が激減した。低価格品は低所得を呼び、日本は負のスパイラルに陥ってしまった。


 <福祉社会の非科学性>

物事を実行するには、その裏付けとなる方法論が無いといけないが、福祉政策にはその
為の資金調達の方法論が見当たらない。増税々々だけでは国民生活が破綻してしまう。
現在でも所得税・消費税・年金・健康保険・ガソリンや酒などの物品税・自動車税・固
定資産税などの住宅関連の税・・・・など幾ら国民から徴収しても足りない位である。
医学は増々進歩するので、現行の社会制度を続ける限り福祉予算は際限なく拡大する。

平均寿命が1年延びただけで数兆円以上の予算が必要になる。行政には無駄な部分もあ
るが、何兆円もの削減は出来ないであろう。高齢者に70・75才まで働いて貰うと言って
も彼らにできる仕事などは日本には殆んど存在しない。現行の社会制度を維持する事は
不可能と言える。福祉社会は願望が創りだした「夢の中の社会」と言えよう。

福祉と言えば北欧の国だが、これらの国々の合計特殊出生率も悲惨な状態である。
2018年の統計ではスウェーデン:1.75、ノルウェー:1.56、フィンランド:1.41、なお
日本:1.42である。少子化の波は日本同様であり、北欧の福祉政策は成功しているとは
言い難い。かの国々でも、子供を育てられないのは日本と50歩100歩である。
幸福度世界トップの国々ですら大半の国民は満足な生活が出来ていないのである。
どの国でも福祉社会を永続させる方法論は持っていない。

どの様な崇高な理念に基づいた政策でも、実行困難なものであればそれは机上の空論と
言わなばならない。方法論を持たずして継続するのは、海図やコンパスを持たずして遠
洋航海に繰り出すようなものであろう。このまま強行すれば社会は崩壊する。
現行の日本社会は「大福に蜂蜜を掛けて砂糖でまぶした」様な大甘の社会と言えよう。


 <産業社会は高コスト社会>

日本では約3000年間農耕社会が続いた。そして19世紀中葉から約100年間の移行期間を
経て20世紀中葉に産業社会に変貌した。農耕社会と産業社会とは社会の構造が全く異な
っているから、両者は異なる価値観で運営される必要がある。しかし我々には3000年の
間に蓄積された記憶が残っている。それは血となり肉となって我々の行動を規制してい
る。状況が急に変化したからと言って、いったん身に付いた価値観・倫理観等を途中で
変える事は簡単には出来ない。日本は思考停止に陥り、滅亡へと突き進んでいる。

農耕社会は単純な生産方式なので人的資質は問題にならない。健康で勤勉であれば充分
である。人の対する投資は食料だけで間に合い、社会を維持するコストは低額で済む。
一方、産業社会では生産方式が複雑になり、その構成員は高度な教育を受けていないと
対応出来なくなった。高学歴化は必然的に起こった現象であろう。

教育は極めて高価な投資である。それを国が支払うか、個人が支払うかは分配の問題で
あり、どちらが支払おうともその社会が生産した富から支出する事には変わりはない。
投資不要の農耕社会、15才までの教育で事の足りた初期の産業社会に比べ、現代社会を
維持して行く為のコストは格段に高額になっているのである。

社会を維持して行く為には子供達を育てなければいけない。今地球上に生息する生物は
あらゆる努力をして子供を育てている。人類も500万年、20万世代に渡り続けてきた。
ところが現代の日本人は現在生きている人の事のみを考え、子供を育てる事は二の次に
考えている様だ。子育てを放棄した種は滅びるほかは無い。


 <高コスト社会に対する方法>

産業社会では農耕社会に比べて大きな余剰が生じたが、これは子育ての為の投資に充て
なければならないものであった。しかし我々はそれを認識せず、福祉と言う現在生きて
いる人の為に使ってしまった。福祉社会は農耕社会と産業社会の過渡期に咲いた仇花と
と言えよう。現に産業社会に移行した国々は全て出生率を落し、滅亡に向かっている。

現代の常識になっている「共生・公助・共助」は農耕社会の発想で、現代では人類滅亡
の合言葉である。「日本の常識は世界の非常識」と言う言葉があるが、「農耕社会の常
識は産業社会の非常識」である。心地よい思想だが、一時の快楽に過ぎない。後にくる
のは地獄のような苦痛であろう。言わばアヘンの様な思想と言っても良い。

産業社会では最も必要な事は子供の教育である。この高額な費用はとても親の収入だけ
では賄いきれない。恵まれていた筈の団塊世代の人達ですら充分な子供の数を育てる事
が出来ていなかった。その時以上に高学歴化しているのに、不況下で暮らす現代の若者
達が育てる事は不可能である。社会の富は子供達の教育費に使われるべきである。

今後若者の所得が上がっても、当然に教員の給与・各種資材の価格も上がるので教育費
も高騰する。両者はイタチゴッコで、産業社会というものは構造的に個々人が単独で子
育てが出来ない社会である。ならば子育ての費用は社会が支払う以外に方法は無い。


<医学と国民健康保険が福祉社会を崩壊させた>

医学は多くの人の命を救ってきた。人間は医学のおかげで生きる事に然程心配する必要
が無くなった。いくら感謝しても足りない位だが、反面恐ろしい副作用をもたらした。
死ぬ事が難しくなってしまった。若い時はヨボヨボになってまで生きていたくないと考
える人がいるだろうが、生き物には生き続けたいと言う強い本能がある。実際その時が
来れば医療を断る事は出来ない。医学は必然的に大量の自活出来ない人を創りだした。

医療は高額であるから受けられない人が多い筈だが、これに国民健康保険が加わった。
現在の制度では高齢者と言うだけで無料に近い医療が受けられる。これさえ廃止すれば
大幅に現役世代の負担は和らぐ。別に現在の高齢者に遠慮する必要は無い。
現在の若者も30年後、40年後には高齢者になる。彼等にも同じ待遇が適用されるので、
特にどの世代に不公平と言う事は無い。要は人の生き方の問題である。

高齢になったからと言って他人から援助を受ける権利もないし、誰も高齢者に援助を与
えねばならないと言う義務もない。ましてや現在は与える方が生活に困窮している。
我々は医学の誘惑を断ち切って「人生は60年!それ以後は運を天に任せる」と考える
以外に社会を存続させる方法は無い。(60才までは現行の保険制度で特に問題ない)

このままでは社会の矛盾は拡大する一方で、後の世代ほど悲惨な状態になる。この原因
が人々の価値観及びそれに伴う社会の制度の問題なので、それが変わらない限り無限に
継続されて行く。適当な時期が来ればこの矛盾が解消するものではない。高齢者たちも
子や孫が可愛ければ自分さえ良ければよいと言う考えを改め、これ以上他人にたかる様
な行為は中止すべきである。親は子の為にあるが、子は親の為にあるのではない。


 <医療関係者に一言>

中には医は算術と考える人もいるだろうが、医療に携わる人達の多くは人を助ける事に
意義を見い出す崇高な精神の方々と思う。だが無料で治療している訳ではないだろう。
今日治療した患者の治療費の事を考えて頂きたい。財務省に打ち出の小槌がある訳で
はない。全部国民から徴収したお金である。国民が優雅に暮らしているなら兎も角、多くの国民は苦しい生活を余儀なくされている。その人達から徴収したお金である。

「木を見て森を見ず」と言う言葉がある。医療行為は患者を治療して終わりではない。
それに掛かった費用を徴収して始めて完結である。医者は目の前の患者だけではなく、
治療の費用を支払っている人達の事も見て欲しい。現在、その人達はどんどん疲弊して
いっている。このまま闇雲に治療を続ければ、将来は治療費を支払う人がいなくなる。
そうなれば医療崩壊である。それを避ける為には現在の治療を制限する以外に無い。


 <普通の人が普通に生きられる社会へ>

我々は長年の間、福祉社会と言う実現不可能な社会を追い求めてきた。戦後の教育を受
けた80才以下の人たちにとっては福祉社会と言うのは有って当然というものであろう。
其れをいきなり否定される事は耐え難いと思う。しかし今までは享受できたのだから、 次世代の人達よりは恵まれていると思う。次世代には最初から無いのである。

教育の費用は2000万円程度と言われている。年間150万人が生まれれば30兆円である。
ついでに弱者からも徴収する理不尽な消費税の廃止の20兆円を加えれば50兆円である。
国民健康保険から60歳以上の人を除外し、福祉予算を削除すれば充分に可能であろう。
(60才以上は保険制度の原則に従い、その発生率と上限金額で保険料を決定する)

福祉は出来る事なら社会の余剰と、余裕のある人たちの寄付で賄われるのが一番良い。
現行の様に社会制度に組み込んでしまうと、一方で普通に生活する人を痛めつける事に
なってしまう。普通の人が苦しむ社会は決して本来の福祉社会の姿ではない。

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         北欧諸国も崩壊へ!


現在、ある程度産業化を成し遂げた国は全て急激な出生率の低下に直面している。
逆に医学の進歩で寿命が延び、働く能力を喪失した老人の人口は増々増加している。
別に難しい数学を使うまでもなく、働く人が減少して遊んでいる人が増加すれば、現行
の社会制度を維持する限り、その社会が崩壊する事は自明である。

現代は各種避妊具によって性欲と出産とを連動させる必要が無くなり、子供を産まない
と言う選択が可能になった。子供を育てる条件が改善されても若者たちが子供を産む事
を望まないのであれば仕方がないが、望むのであれば産む環境を造る必要がある。
このままでは日本の社会は滅亡に進み、その中でほぼ全員が貧困の中で自滅する。

以下は産み育てる条件さえ整えば、若者たちは子供を望んでいると考えて論じる。
それでは世界中で何か参考になる社会があるであろうか?

日本では北欧の国々が理想の様に語られているように見える。
世界幸福度ランキングでも上位にはフィンランドデンマークノルウェー・アイスラ
ンド・オランダ・スイス・スウェーデンニュージーランドと並んでいる。
どの国も福祉に力を入れており、国民の幸福度が高いとされている国々である。
知識人と言われる人達はこぞってこれらの国々の政策を賛美しているように見える。

筆者は住んだ事が無いので詳細は判らないが、本当に幸福な国なのであろうか?

人の言う事を鵜呑みにしてはいけない。戦後在日朝鮮人北朝鮮への帰還に旗を
振ったのは新聞各紙・社会党共産党鳩山一郎自由党などの知識人達であった。
彼らの無責任な言動に騙されて帰還した9万人もの人々の悲劇は周知の事である。
自分達は現地を見ずして、イデオロギーだけで「地上の楽園」と宣伝したのである。
無責任極まりないと思うが、これが日本の知識人と言われる人達の実態である。

現在、日本の知識人たちは北欧社会を賛美しているが、彼らは現地で何年も暮した事は
ない筈である。暮らしても見ないで「良い社会」と宣伝するのは戦後の知識人と同様で
ある。幸福度を調べているのは国連=欧州知識人であるから、安易には信じられない。


<福祉社会の現状>

上記の国の人々が幸福を感じているか如何かは知らないが、決して子育てに適した社会
とは言えない。彼等もまた日本と同様に出生率の激減に直面している。

幸福度の上位10傑の国々でも合計特殊出生率は1.5-1.75しかない。フィンランドに至っ
ては日本と同率の1.42である。しかもその数字は一貫して長期下落傾向にある。
筆者はなぜこの様な、子供を育て難い社会を幸福と感じられるのかは理解できない。
彼らが筆者とは全く異なる価値観を持っているのか、それともバカなのかは判らない。国連が自分達のイデオロギーの為に恣意的に調査しているのかも知れない。 

いくら「高福祉」でも「高負担」である限りは、それを負担する若者達は貧乏である。
老後の為の貯蓄は不要と言われても、収入の半分も税に取られればどうしようもない。
この様な社会で一番賢い生き方は、自分は子育てをしないで収入は全部自分の遊興に
使い、老後は他人の育てた子供の世話になる事であろう。
もし子無しの人に特別税を掛ければ、それはそれで色々な不都合が考えられる。

少なくとも北欧諸国の政策は「少子化対策」の面では参考にならない。
以前あれ程もてはやされた共産主義も、実際に運用すれば結果は惨憺たるもので、現在
では殆ど見向きもされないものになっている。
どんなに精緻な理論を構築しても、実行不可能なものは「絵に描いた餅」に過ぎない。
福祉社会も余程の改良がなされなければ、将来は打ち捨てられる運命になる。


<弱者に優しい社会は普通の人が苦しむ社会>

今後福祉社会に変わる良い案が出てくるかもしれないが、当面は満足できる案は無い。
無いものはどうしようもない。不満足でも出来る範囲で生きていく以外に方法はない。

少子化対策は簡単である。子育ての経済的及び労力の負担を軽減する事であろう。
まずは子供が社会に出て一本立ち出来る教育を無料で受けさせる事である。親の一番の
心配は子供に必要な教育(現状では約15年間)を受けさせる事が出来るかどうかである。子育ては長丁場であるから、現在は何とかなっても将来は不安である。
また子供を育てる為の物心両面にわたる社会のサポート体制も必要になるであろう。

子供を育てるのは親の責任と考えるのは20世紀前半までの農耕社会の考え方である。
これからは両親共に働く事がスタンダードになるので、社会のサポートは欠かせない。
社会の維持にとって子供が必要なら、社会が費用を負担する事は当り前であろう。

これには何10兆円と言う多額の費用が必要だが、原資は福祉を削る以外に方法は無い。
結局、「弱い人に優しい社会」はその負担で「普通の人が苦しむ社会」になってしまっ
ている。大半の国民は自分が生活をするのがやっとの普通の人達であると考える。
老人に対する健康保険などは一番にカットの対象になるものであろう。
福祉に対する対処に付いては重複になるので、他のブログの項目を見て頂きたい。
本稿では北欧の福祉政策は破綻している事、又それに代わるべき政策は見付かっていない事のみに止めておく。

blog3

 

   福祉社会は「貧・貧介護」社会!   

 

日本の社会制度は世代間の順送り支援となっている。簡単に言えば現役世代が金を出し
合い、自活能力を失った老人世代を養っていこうという制度である。日本全体が家族の
様なシステムである。大半の人が結婚して1-3人の子供を持つ時代には有効な制度かも
知れないが、未婚や子供をの無い所帯が増えてくれば、その前提条件が変わってくる。

残念ながら医学は人を生かしておくことは出来ても、脳を活性化させる事は出来ない。
産業化された社会では人は脳を使って仕事をするので、脳が劣化すれば使い道はない。
大半の人は60才も過ぎれば能力も気力も低下し、自活に足りる仕事は出来なくなる。
人間も生物である以上、加齢による能力の低下は如何ともし難い。

出生率の下落と寿命の延びで、現役世代に対する老人世代の人口比率は増々増加する。
現役世代は老人達の生活を支えながら、子供を育てると言う2重の負担に耐え切れなく
なっている。若者たちの未婚や子供の無い所帯が増えているのはその証左である。
この状態は今後拡大再生産され、現役世代は増々貧困になり、出生率は更に低下する。
少数の現役世代から収奪できる金は僅かだから、当然ながら老人達も増々貧しくなる。

結局、福祉に重点を置いた現行の社会制度は実行不可能な制度であり、どの様な高邁な
精神に裏打ちされていようと、所詮「絵に描いた餅」に過ぎないと言える。
日本人全体を家族の様に模した現行制度はその前提条件を失い、論理は破綻している。
「老・老介護」が崩壊する様に、「貧・貧介護」の社会は全員が不幸の中で滅亡する。

社会制度の崩壊は徐々に進行するので、どうしても対処療法で切り抜けようとするが、
その内に限界が来る。その時には現行を変革できる能力が残っているとは考え難い。
現在の日本はまさに「茹でガエル」状態になっており、このままでは滅亡するだろう。


<現役世代の生活状況>

現役世代の中央値である40代前半の男性正社員で年収が500万円前後となっている。
一般的な主婦のパート勤務を加えても600-650万円程度である。
夫婦共に正社員なら900-1000万円程度になるが、正社員同士の共稼ぎであれば税金も高
く、子供が居ればその生活の負担は極めて大きいものになる。負担を減らそうとすれば
諸費用が生じるので、苦労を考えれば実質的にはパート勤務の家庭と大差なくなる。

この程度の収入では、所得税・健康保険・年金・消費税等を考えれば左程余裕はない。
もし2人の子供を持ったなら、彼等に充分な教育を受けさせる事は困難であろう。
また、正社員の職に就けない人も少ない訳ではない。彼等は真面な生活も困難な状態に
置かれており、取り合えず自分が今を生きる事しか考えられず、お先真っ暗である。

経済状況が悪いのは程度の差はあれ他国でも同様であり、どの様な政府を作っても大き
な改善は見込めない。20世紀後半の様に多くの人が豊かである世界は再現できない。
ならば、現役世代は今後とも自分の生活を維持するだけで精一杯と考えた方がよい。
日本には「他人を支えるに足るだけの能力を持つ人」はごく僅かしか居ないのである。


<世の中出来ない事は出来ない

自活するだけで精一杯の人に人を助けろと言えば、双方が共倒れになってしまう。
現在の日本で「皆が支え合え」と言うのは「皆で抱き合い心中をしろ」と言うのと同義
語であろう。「支え合う」と言う言葉は美しいが、その結果は残酷である。

日本が「貧・貧介護」の状態にならない為には、冷たい様だが支え合いは出来ない。
弱者を見捨てるのかと怒る人は多いと思うが、無い袖は振れない。
出来ない事は出来ないと割り切る以外に生きていく方法は無い。
福祉関連予算は大幅にカットして、現役世代の負担を減らさないと日本は自滅する。


<健康保険についての一考>

現行の健康保険制度は保険制度ではなく福祉制度になっている。保険制度であるならば
その発生頻度と補償額に応じて料金が決定されねばならない。
身体のトラブルは年齢の要素が極めて大きい為、その料率は年齢で決めるべきである。
(但し、未成年者は自活が出来ないので保険制度の枠外で保護する必要がある)

人間は40才にもなれば白髪・皺など徐々に老化が現れ、50才も過ぎれば大きなトラブル
も生じてくる。60才台で病気に無縁でサプリも飲まない人はむしろ少数派であろう。
当然、其れなりの保険料金を支払ってもらわなくては制度が破綻してしまう。
多分多くの高齢者は負担できないだろうが、加入者の権利は平等でなければいけない。

「老人は死ねと言うのか」と怒る人も居ようが、別に死ねとは言っていない。だからと
言って 特段生きていて欲しいとも思わない。個々人は自由に自分の人生を送れば良い。
日本人は自由な個々人が集まって社会を構成して、その中で自由に生きるべきである。

どうしても現行の制度を維持したいなら、「健康福祉制度」とにでも名前を変える必要
がある。但しその場合は若者達に対して、法外な料金を強制徴収している事を理解をし
て貰うか、彼等の制度からの脱退の自由を認めないと人権侵害になると思う。

また現在の若者達にはよく考えて貰いたい。現行制度は理に適っていない制度である。
あなた達の子供世代は更に人数が少なく、医療の進歩で医療費は増加の一途をたどる。
現行のような制度が何十年後まで続いていると考えるのは極めて楽観的であろう。
あなた達が老人になった時には現行のような保護は受けられないと考えた方が良い。

身体にトラブルが起きたからと言って充分な治療が受けられる権利は誰にもない。
法学者は生存権を主張するかも知れないが、所詮それは一つの学説にすぎない。
筆者は「生活に困窮したら他人に生活費を出させる権利」も、「自分の幸せを犠牲にし
てまで他人を助けなければいけない義務」もないと考えている。


<福祉から寄付へ>

福祉の基本は個々人の善意の寄付で賄うのが筋である。善意の強要は間違っている。
幾ら不運が重なって生活が困窮したからと言って、権利として他人から援助を受けると
言う事はおかしいと思う。(当然の事だと考えられる人も多々居られると思うが)

困っている人が居たら、自分に余裕があれば助けてあげようと言うのは民度である。
その社会の民度が高ければ、自ずから余裕のある人は手を上げるであろう。
金銭的に余裕のない人でも、時間的に余裕があればボランティアを買って出てくれる可
能性もある。もし誰も助けてくれる人が居ないようなら、所詮それだけの社会である。

勿論、自発的な援助は強制的なものより少額になるが、それは仕方がない。
元々善意の量に特定の基準がある訳ではない。出来る範囲内で行うのが道理である。

 

Blog2

 

    絶滅危惧種「日本人」      (blog-1)

ネットで「絶滅危惧種、日本」と検索するとコウノトリシマフクロウイヌワシ・ジ
ュゴン・タガメ・アオウミガメ等多くの動物が掲載されており、その保護が呼びかけら
れている。だが何故か、その中に「日本人」という名前が見当たらない。

総務省の資料「我が国における総人口の長期的推移 - 総務省」によると、日本の人口は
今後毎年100万人程のペースで減り続けるらしい。低位推計の場合は130年後の2150年
頃には人口はほぼゼロになる。当然それまでに国家は崩壊するだろう。
出生数が減り続ける原因を取り除かなければ、減少幅が増加する事は有ってもストップ
することは無い。総務省が統計で「このまま行けば日本人は絶滅する」と言っている。
自分達の事はどうでも良いのであろうか・・・・・不可思議である?

別に絶滅する事が悪いと言う訳ではない。皆が楽しい生活を続け、その中で消滅してい
くならそれもまた良しである。だが残念ながら楽しく消滅していく事は出来ない。
今後の「少数の若者と多数の老人」と言う社会では、その社会の全員が貧困に陥る。

少数の若者から限界まで搾り取っても、それを多数の老人で分けてしまえば、1人当た
りの分け前は僅かになる。この様な社会では若者も貧乏、老人も貧乏になる。
石川啄木ではないが、若者達は「働けど働けど猶わが生活楽にならざり・・・」状態に
なってしまう。更に困った事に、時代が下るほどその悲惨さは増してくる。

その様な夢の無い社会なら、能力のある若者は国外に活路を見い出し日本から逃げ出す
可能性が高い。有能な若者ならどの社会でもウエルカムである。
日本より経済的に困難な国は有るので、日本の人口が減れば移民は来るであろうが、当
然その中には有能な若者はいない。日本は老人と凡庸な若者&移民だけの国になる。

このまま何もしなければ50年を待たずして日本の社会が崩壊する可能性がある。
出生率を回復させる以外に日本人が幸せな人生を送る方法は無い。
それでは先ずは出生率が低下する構造的な原因を考えてみよう。
老人達も自分達には関係ないと考えずに、子や孫の為に真剣に考えて貰いたい。


 <危険信号は1960年頃から発せられていた>

日本の人口は1925年(昭和元年)から1985年(昭和60年)迄、戦時を除き毎年100万人
増えている。だが「合計特殊出生率」という親世代が何人の子供を産んだかと言う指標
では、戦前には「3.5-4.5」あったものが、1960年には早くも人口維持に必要な「2.1」
にまで低下し、その後しばらく「2.1」前後で推移している。
1975年に「2」を、1995年に「1.5」を割り、その後は「1.3-1.5」の間で推移している。

問題は1960年頃には既に人口維持に必要なギリギリの水準まで低下していた事である。
その後の人口増加は単に平均寿命が延びたことに依るもので、一時的な現象と言える。
人口減少による社会崩壊の原因は既に1960年頃に芽生えていたのである。
1960年は新安保条約が成立し、池田内閣が誕生して「所得倍増計画」を発表した年だ。
その計画は順調に進み、多少の波は有れ、1990年まで高度成長が続いた。

「豊かで、女性が専業主婦」という子供を育てやすい時代に出生率が減ったのである。
現在の60・70才代の人達は、この様な恵まれた時代でも十分に子供を産まなかった。
否、恵まれていた彼等ですら産むことが出来なかったと言う方が公平であろう。

若者が子供を産まなくなった根本原因は、所得の低下でも労働環境の問題でもないので
ある。だから、子供手当保育所働き方改革をしたからと言って問題は解決しない。
(勿論、それは必要な事ではあるが、必要かつ十分な条件ではない)
それでは1960年頃に顕在化して、その後拡大化した社会の要因を何であろうか?


 <農耕社会から産業社会への移行が顕在化>

日本では農耕主体の社会が紀元前1000年頃から19世紀中葉までの3000年ほど続いた。
そして19世紀中葉に明治政府が出現し、中央集権の下で殖産興業の政策が推進された。
各種の産業が勃興し、徐々に産業部門が拡大して日本は産業社会への歩みを始めた。

産業の発展は新しい働き口を創出したので、農耕社会では子供を持てなかった人達が職
を得て家庭を持ち、子供を育てる事が出来るようになった。その結果人口が急増した。
(1870年:3300万人、1970年:10300万人、1世代25年毎に33%の人口増加)

1950年頃に中東で大量の油田の発見され、その結果世界的好況になり日本も復興した。
産業部門は大発展し、農業部門も機械化・化学肥料の使用等で兼業農家が激増した。
結果、大多数の人は産業部門に従事し、農業部門の従事者は少数になってしまった。

明治以来100年の移行期間を経て、日本は農耕社会から産業社会に変貌した。
農耕社会と産業社会は全く異なる経済システムの社会である。当然に社会規範も変わら
なければならない。しかし我々は未だにそれを変える事が出来ないでいる。
人の思考の型は若い時に出来上がり、その後に変化させるのは極めて難しい。
人間の寿命から考えると、100年と言う移行期間は社会規範を変えるには短か過ぎた。

人は一定の環境の下、其処で生きて行くのに都合の良い社会規範を作って生活する。
だからどの社会にも適応する社会規範というものは無く、社会の構造が変化すればその
中の社会規範も変化する。「現代の常識・美徳は未来の非常識・悪徳」かも知れない。
我々は産業社会に見合った新しい社会規範を構築しないと生きて行けなくなる。

それでは農耕社会と産業社会の大きな違いは何であろうか?


 <農耕社会と産業社会の違い>

1. 農耕社会では子供は必需品。

機械や化学肥料の無い時代の農業は厳しい労働が必要である。40才代にもなれば体力が
落ちてきて徐々に助けが必要になる。その頃には子供が手伝える年齢になる。
年と共に労働の主体は子供に移行していき、子供が結婚する頃には子供の時代に移る。
孫が何人か出来た頃には親は寿命が尽きる。このサイクルが延々と続くのである。

もし子供が居なければ養子を貰う事になるが、それは当然子供が小さな内に行われる。
他人が産んだ子であろうと、自分の子であろうと、養育し仕事を教えていく過程は同じ
である。親が子供を育て、やがては子供が親を助けるという構図は変わらない。
また自給自足の生活は雑用が多いが、子が10才にもなれば充分に手伝いが出来る。
子供を育てる事は親にとって実利がある。農耕社会では子供は必要なものである。

2. 産業社会では子供は不要である

産業社会では親と子は別々の職業に就き、別々の人生を歩むのが普通である。
農耕社会の様に、親と子が協力をして一つの仕事をしていくと言う構図は存在しない。
親が子供を育てるという事に対する利益は殆ど無く、親が一方的に労力を提供する。
この社会では人が生きていく上で子供は必要としない。

3. 農耕社会では子供の養育費用は安価である。

農耕社会で生活するのに特段の教育は必要ない。仕事は親が教えれば充分である。
食糧や衣料もかなりの部分は自給自足が可能である。米は商品ではあるが、自作なの
で原価で手に入る。野菜も自宅の庭に植えておけば自家消費分ぐらいは賄える。
農耕社会で生活していく上では、子供を養育する費用は極めて安価である。

4. 産業社会では子供の養育費は高価である。

産業社会はどんどん高度化し、時代が進むほどそのスピードは増してくる。1960年頃ま
では中卒でも結構就職先はあり、能力のある人は職人・商人として事業主になる事も珍
しくなかった。彼等の収入は大卒のサラリーマンと同等、またはそれ以上の人もいた。

ところが産業が高度化するに連れ、要求される教育も高度化していった。
調理師・理美容師の養成施設も入学の資格は原則高卒で、その教育年数は2年である。
つまり大半の資格は最低6・3・3・2の14年の教育を受けてこないと習得できない。

また一般企業でも現場職以外は大卒が必要条件で、現場職からの成功談は稀である。
大学生でも別途英会話を習ったり、理工系などは大学院まで進むことも珍しくない。
産業社会に於ける子供の養育費は極めて高価なものと言える。

産業社会の進化はスピードアップし、それに応じて子供の養育費用は増々高騰化する。
因みに、大卒までにかかる教育費用は最低1000万円、下手をすると2000万円を超える。
これに食費・衣料費・遊具費など諸々の費用を加えれば気が遠くなりそうである。


 <個人の利益と社会の利益>

以上から、子供は農耕社会では育て易く必要であり、産業社会では育て難く必要は無い
と考えられる。だが個人個人にとっては必要でなくても、社会全体としては、その維持
のために子供は絶対に必要なものである。また数だけではなく、その質も重要になる。
社会の成員が充分な教育を受けていないと、他の社会との生存競争に負けてしまう。
教育を施された子供が沢山存在する事が、その社会全体の発展に必要不可欠である。

ここで子供を特に必要としない個人と、高い教育を受けた多くの子供を必要とする社会
全体との間に大きな利害の乖離が生じる事になった。

好況期で、子育てがし易かった時代でも子供を産まなかったのは教育費と住居費の問題
が最大の要因と言える。確かに通常の生活だけなら子供を3・4人育てる事は出来ても
高等教育や子供の生活環境の充実などを考えればエリートサラリーマンでも躊躇した。

子供を持ちたいと言う生物的本能を満足させるだけなら1人・2人の子供でも充分であ
る。むしろ少ない子供に充分な教育と生活環境を与えた方が理に適っている。
また子供が欲しくない人もいる、精神的・肉体的に子供を産む事の出来ない人もいる。
希望する人でも1人・2人では出生率が激減していくのは当たり前である。

これは日本だけの問題だけではない。「世界の合計特殊出生率 国別ランキング・推移」
に国別の合計特殊出生率が掲載されている。国によって諸事情があるであろうが、
「2.1」以上の国は概して産業化が未達成の国々である。産業化を完了した国は殆ど
「1.8」を切っている。
ヨーロッパ諸国は押し並べて「1.5-1.7」程度、日本・シンガポール・韓国・台湾などの
アジアの国は更に数値が低く「1.0-1.5」と危機的である。ヨーロッパよりアジアの方が
総じて数値が低いのは、農耕社会の色彩がより強いためであろうか。

産業社会に於いては、子育てを個々人に任せておけば出生数がどんどん減っていく。
教育を受けた子供を必要とするのが社会全体なら、その費用を負担をするのは社会全体
でないとおかしい。利益を受けるものがその費用を支払うのは当然である。
農耕社会の「子供は親が育てる」から、産業社会の「子供は社会全体で育てる」という
価値観の変化を受け入れないと日本は崩壊してしまう。


 <子供の学習の権利>

憲法26条では、日本人として生まれてきた子供は「必要な学習をする権利を有し、その
学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利」が
有ると記されている。教育のレベルは当然その社会で通用する物でなければならない。

一方、憲法27条には国民の三大義務の一つである「就労の義務」が記されている。
義務がある以上、子供にはその社会で生きて行く為の教育を受ける権利がある。
筆者は弱者が働かなくて良い権利より、子供の学習の権利の方が正統性があると思う。

必要な教育の水準はその社会によって異なる。前述のように農耕社会なら親から教われ
ば充分であるが、産業社会では学校で一定レベルの教育を受けないと追いつかない。

では日本政府の過去の行動はどうであったか? 皮肉な事に戦後の民主主義下の政府と
異なり、専制的な明治政府は優秀であった。産業の高度化に伴い、明治政府は1900年
(明治33年)に4年間、1907年(明治40年)に6年間の教育を無償にした。
戦後の政府は1947年に9年間に延長したが、何故かここで無償化延長はストップした。
産業の高度化は続いているのだから、無償の教育を延長するのが当然の流れである。

現在では6・3・3の12年間の教育でも不充分である。子供達が自活する為には14-16年間
の教育は必要条件である。当然、この教育は権利であるから無償でなければならない。
(義務教育の延長は必要としない。学校教育を必要としない人もいる)
投票権が無いと言うだけで、日本国民である子供達の権利を無視してはいけない。


 <教育費の規模は>

前述のように子供達に充分な教育を受けさせるには1000-2000万円必要である。平均し
て1500万円と考えよう。(前提として、当然に教育界には大きな改革が必要である)
各年齢の平均人数を150万人とすると(1500万円×150万人)で予算は年間22.5兆円にな
る。簡単に言えば現行の予算に20兆円ほどを積み増せば、日本国民は必要な教育を受け
る事が出来る。この社会を存続させる為の費用であれば決して過大なものではない。

但し、こんな提案をしたら財務省は発狂する。どう考えても20兆円の追加予算は不可能
だ。これ以上増税すれば、それでなくても息絶え絶えの現役世代は死に絶えてしまう。
だが教育の「完全無償化・子育て支援」を行わないと社会は崩壊する。
これぞ、行くも地獄、退くも地獄である。
ニッチモサッチモ行かなくなった時は原点に還る以外にない。
国民の権利・義務を検証して、国の行うべき仕事とその予算を再考する必要がある。

 

 <国民の権利と義務に対する一考>

憲法25条(生存権)は大いに主張されるが、それは本当に正当な権利なのであろうか?
少なくとも憲法26条(教育権)より正当な権利なのであろうか?

国連憲章には「生活水準並びに生活条件の不断の改善についてのすべての者の権利を認
める。締約国は、この権利の実現を確保するために適当な措置をとり・・・・・」と記
されている。ヨーロッパのリベラリストが主導する国連ですら努力目標である。
日本国憲法には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
と記されている。日本国憲法国連憲章より更に一歩踏み込んだ表現になっている。
この条文は(ネットの情報が正しければ)GHQの原案にも無かったらしい。

フランス・イタリアでは日本の条文に近く、イギリス・ドイツには特段の規定は無い。
アメリカはGHQの原文にも無いのだから、当然規定は無い。
この規定があるかないかで大きな違いがある。
勿論、規定が無いからと言って行っていない訳ではないが、国に支払い能力が無ければ
減額したり中止が出来る。だが規定があれば無理にでも行わなければならない。

日本は民主主義国家だから、国の義務は主権者である国民全員の義務に他ならない。
権利と義務は裏表の関係である。ある国民に「生活を営む権利がある」なら、当然に他の国民には「営ます義務」が課せられる事になる。

民法には親族に対する扶養の義務が書かれている。これは多くの人が納得する項目であ
ろう。(筆者はこれも大幅に縮小すべきと考えているが)
だが赤の他人にまで「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する義務があるのか。
この理屈ならば、日本国民は皆が家族同様の関係になる。まるで疑似共産主義である。
困っている人が居たら好意で助けてあげるのは素晴らしい行為であるが、義務で助けろ
と強要されるのでは納得できない。

法学者は生存権の存在を主張するかもしれないが、それは単に一つの学説に過ぎない。
自分が弱者であるからと言って、他人の懐に手を突っ込んで良い道理は無い筈だ。
このままでは日本中が1億総「貧・貧介護」状態になって、皆で抱き合い心中になる。
(資本主義の欠陥である貧富の拡大は、富裕層への増税の範囲内で行うべきである)

生存権を否定すれば福祉関連の予算および健康保険料などは大幅削減される。
弱者への援助は可能な人が善意で行うもので、国民全体が義務で行うものではない。

但し年金制度は存続する。年金制度は福祉政策ではなく、産業社会を維持するための必
要な制度だからである。農耕社会と異なり、産業社会では退職すれば生活する方法が無
くなる。普通に働いてきた人が退職から死ぬまでの期間の生活が保障されなければ、社
会が維持できない。その為に次代の人材は社会全体で育てている。


 <天使と天使がタッグを組んで悪魔に変身した>

それでは日本の社会を崩壊に導いている元凶は何か? それは「医学」である。

医学は大きな功績を残している。「医術は算術」と心得ている医師も居るであろうが、
人を救うと事に使命感を持った医師が大半であろう。医学のおかげで救われた人は無数
にいると考えられる。まことに「白衣の天使」の名称は伊達ではない。

またヨーロッパで提唱された「福祉国家」も、その提唱された過程に政治的な匂いはす
るが、基本は心優しき思想であろう。実行が可能であれば素晴らしい主張である。

ところが医学と福祉国家がタッグを組んだ結果、社会は一転滅亡に歩み出した。

人間は60才も過ぎれば全体が劣化していき、身体に色々とトラブルが生じてくる。
脳を含め身体全体の劣化が進むと、自活するに足りる仕事は段々出来なくなる。
この世は上手くしたもので、その頃になれば身体の何処かに大きな故障が生じて死ぬ。
「自活出来なくなったら程なく死ぬ」と言う事なら左程他人の世話にならなくて済む。
つい最近まで、人間はこの様なサイクルで生きてきた。それを医学が破壊した。

医学がコレラ・ペスト・結核などのの細菌を殺す段階でストップしておけば問題はなか
ったが、彼等は老化した身体の部品の修理にまで手を出し始めた。

医学は部品の修理は行うが、全体の劣化を改善して若い身体にする事は出来ない。
その結果「自活は出来ないが生きている」という人間を大量に創り出してしまった。
「自活が出来なくなったら程なく死ぬ」という自然のサイクルを破壊したのである。
医学は善であるが、少し思慮の足りない善であった。

これが医学だけならそれ程の大事にはならなかった。医療費は高額であり、誰でも利用
できるものではないので、その影響は限定的なものになった筈である。
だが、ここに国民全員に健康保険をと言うトンデモナイ政策が絡んでしまった。

「医学」と「福祉国家」がタッグを組んだ結果、医学の進歩と共に医療費は際限がなく
なった。同時に自活できない人を大量に生み出し、その生存権に基ずく生活費の支給は
膨大になった。遂には現役世代は重税で瓦解し、国家財政は破綻の危機に面した。
命は何よりも大切だという「命原理主義」を唱えれば、その結果全員が死滅する。

知的で心優しい福祉思想と、献身的な医学と言う2つの善が日本の危機を招いている。
(善X善=大善)になるとは限らない。とかくこの世は難しい・・・・。


 <医学は史上最も強力なアヘン>

生物は少しでも生きていたいという本能を持っている。貧困でも、身体が不自由になっ
ても、認知症の恐怖を感じても、人は生に執着する。医学はこの生物としての一番強い
欲望に作用する。だから人間は自分の力で医学の誘惑を断ち切る事は困難である。
麻薬は取り付かれる人は少数なので個人が破滅するだけだが、医学は全員が取り付かれ
るので社会全体を破滅させる。その悪魔性はヘロインなど足元にも及ばない。

医学が無くても人類は破滅しない。3000年程前の日本の人口は10万人に満たなかったら
しい。それが300年ほど前には3000万人強にまで増加した。医学の無い時代でも日本人
は人口を増やしてきた。しかし、医学が全員に行き渡った時代に人口が急減し始めた。
悪魔面をした悪魔なら此方も用心するが、天使の仮面を被った悪魔には騙される。


 <60才を過ぎた人に健康保険制度は馴染まない>

保険制度という物は一部の人に生じる事柄に対してのみ有効である。だから保険料率は
それが生じる頻度によって異なる。生命保険も加入の年齢が低いほど保険料は低額であ
るが、加入の年齢が高くなるに連れて高額になっていく。そして一定年齢で加入の資格
が無くなる。その時期になれば大半の人が死ぬからである。

身体の深刻なトラブルは若い時にはそれ程起こる事ではない。だから彼らに対する現行
の健康保険制度は、その賛否は兎も角、少なくとも理には適っている。
一方、老化は全員に生じるものであり、高齢者の身体にトラブルが起こるのは必然であ
る。全員に生じる事項は保険制度は馴染まない。だから高齢者には現行の健康保険制度
に加入する資格は無い。資格を持たない人間がその制度に不正に加入して利益を貪るの
は、正当な加入者からの収奪行為に他ならない。

通常60才も過ぎれば多くの人にトラブルが生じるので、その当りの年齢で現行の保険制
度から脱退する必要がある。全員に生じる老化は個々人で対応して貰う以外にない。
彼らを援助したい人は、他人を引き込まないで、自分だけ寄付でもすればよい。

制度というものは理に適ったものでないと、必ず何処かで破綻する。一部の人達の無法
な行為で制度そのものが破綻すれば、加入者全員が被害を受ける。


 <子や孫の生き血を啜る高齢者>

刺激的な言葉で恐縮だが、現行の制度では高齢者が子供世代から理不尽な略奪を行う事
になる。もちろん当人達にはその様な意識は無いであろうが、結果としてそうなってし
まう。無知であるからと言って、その結果責任からは逃れられない。

現在65才以上の人口は4000万人弱である。彼らの年間医療費は平均75万円だから保険の
負担は(75万円×80%)60万円になる。総額は(60万円×4000万人)で24兆円である。
高齢者が支払っている年間の保険料はせいぜい数兆円であるから、医療費だけで20兆円
からの金が現役世代から奪われていると言える。

医療費が自己負担になれば現行のような手厚い医療は受けられなくなるので、当然平均
寿命は下がる。6・7才短くなれば人口は約1000万人程減る。年金や生活保護費を年間
100万円とすれば(100万円×1000万人)で負担額は10兆円程少なくなる。
合計すれば30兆円以上現役世代の負担は減る。上手くいけば教育費だけでなく消費税も
ゼロになる。

それではこの様な高齢者による略奪行為を若者たちが怒っているかと言えばそうでもな
さそうである。むしろ賛成している人が多いようにも見受けられる。何のことは無い、
彼らも自分達の子や孫から略奪する気が満々だから現行制度に反対しない。
誠に見下げ果てた社会である。「親が子や孫の生き血を啜る」という醜悪な社会が滅び
去るのは仕方のない事かも知れない。

60才も過ぎれば医学はアヘンと見做して、遠ざける以外に方法は無い。尤も自分の金で
アヘンを吸飲するのは自由である。吸飲したい人は確り金を貯めればよい。

生きると言う事は厳しいものである。通常自分が生き、子供を育てるだけで精一杯だ。
全ての生物はその様に生きている。助け合いなどは一寸した社会の潤滑油に過ぎない。
20世紀後半の潤沢な資金は、次への投資として子供達の育成に使うべき金であった。
我々はそれを間違え、次への投資を怠った。だから今、未曽有の困難に直面している。

産業社会は個々人が自立しないと成立しない社会である。厳しいと言えば厳しいが農耕
社会と比べたら極めて生産性の高い社会であり、そのお蔭で3000万人程しか生存できな
かった日本で1億人が生存できるようになった。更なる人口増加も可能である。
我々はこの社会に感謝する事はあっても恨むことは無い。

困難でも現行の社会規範を改めて産業社会で生き続けるか、このまま新しい社会に適応
できなくて滅び去るかはその社会の勝手である。


 <親と子の情愛について一考>

社会制度としては親世代と子の世代の切り離しは可能だが、個々の親子関係は切り離し
は困難であろう。いくら金銭的には負担が少なくなると言っても、子育ての大変さは変
わらない。まして20年前後も同居すれば増々親子の関係は濃密になる。

確かに、親が倒れれば子は何とかしてやりたいと思うのが普通の感覚であると思う。
しかし医療費は高額であるから、何とかしようとすれば子の生活は破綻する。
それを承知で子の援助を受けるなら、その人間に親の資格は無い。
親は親、子は子のそれぞれの人生を自己完結させることが産業社会で生きる術である。

この関係は代々受け継がれるので、ある世代が得をして、ある世代が損をするというも
のではない。どの世代にも公平な生き方であろう。
何事も腹八分目という言葉もある。人生も筒一杯まで考えず、八分目あたりで完了する
のが良い加減かと思う。
別に自殺をするわけではない。自然の摂理に従えば静かに人生を終える事が出来る。

いくら情愛が有っても出来ない事は出来ない。此の割り切りが出来ない社会は滅びる。
割り切りが出来なくて自滅する人も多いかと思うが、それは仕方がない。
冷たいかも知れないが、環境に順応できない種や個体は滅び去る運命にある。
現代人のDNAには縄文人のものは10%程度しか含まれていないと聞く。ならば縄文人
農耕社会に適応した社会規範に馴染めず、その大半が自滅したのであろう。

他の生物は環境に合わせて自分の身体を作り変えて適応していく。身体を作り変えるの
で適応には長い時間がかかる。しかし人間は脳を使って新しい環境に適応する。身体を
変化させないので短時間で新しい環境に適応できる。適応力こそ人類の最大の能力であ
る。出来ればこの特技を生かして、新しい産業社会に順応して貰いたいと願う。

 

2020年9月 喫煙屋才六